展示

花鳥画:自然の詩

7 december t/m 3 maart 2019

「考えてみてごらん、自然の中にまるで花であるかのように簡素に生きる日本人が教えてくれているのは、ほとんど新しい宗教といってもいいのではないか?」

これは、ゴッホが1888年9月24日、アルレから弟のテオに宛てて書いた言葉です。日本の文化に関するこのような見解は、西洋に深く根付いています。

花鳥画とは文字通り、花と鳥の画ですが、じっさいこのジャンルで描かれるものは、植物、草花、動物、魚、昆虫の類、つまりは人間以外の生き物すべてで、じつに幅が広いのです。今回、シーボルトハウスの展覧会では、主に花と鳥に焦点を当てて花鳥画をご紹介してゆきます。

季節や自然を歌う作品は、文学においてはずいぶん早くから見られますが、この展覧会でお見せするのは、季節や自然の視覚的な表現です。絵画と写真における花鳥画の変遷の過程をご覧いただきます。

テーマ

このジャンルの絵画は十二支に着想を得ることが多く、中でももっとも好んで描かれたのが虎、龍(竜)、鶏(酉)です。一方、版画では鶏が人気を博しました。絵画と版画の双方でよく描かれたのが秋の風物カラスで、これはとくに19世紀の後半に顕著に見られ、広重の作品にも見られます。鶴はもちろん縁起の良さから好まれました。猛禽類のオオタカはその強さと速さ早さから賞賛され、大名クラスはよく鷹狩りに勤しみました。

廣重

歌川廣重といえば風景画でしょうが、そのジャンルで成功した1832年と同じ頃、廣重は花鳥画でも成功しています。版元の若狭屋与市と大判25枚からなる花鳥画をを発表したのですが、この花鳥画は大きさ、画風のどちらにおいても革新的でした。廣重は花鳥画に漢詩を入れるなど、作品には大陸の影響が見られるものもあります。作品はすべて花や鳥、あるいは詩をもって季節感に溢れています。廣重は花鳥画を大中小500点以上描きましたが、その人気は絶大で、発行部数も相当なものでした。

小原古邨
古邨は画家として教育を受けました。若い頃からアメリカをはじめ、外国に作品を輸出していました。20世紀の最初の10年間、古邨は滑稽堂や大黒屋で版画のデザインを手がけ、大中小と420点以上を作図しています。そのうちの340点は鳥、65点がほかの動物、15点が花を画題としたものでした。この時期の古邨は絵画も幾点か制作しており、鳥や猿を描いています。1926年になると古邨は渡邊庄三郎のところで働くようになり、これを機に名を「祥邨」と改め、版画の大きさも変えるようになりそして作品はほとんどがアメリカ輸出用となりました。1936年、祥邨は版元を「川口」に変え、以降「豊邨」と称すようになります。作品の数が多い一方で、古邨の人物像については情報は乏しいようです。豊邨は対戦末期に亡くなりますが、豊邨の死をもって、純粋な花鳥画制作は終わりを告げることになります。