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歌川国貞展:芝居絵と美人画

9 december t/m 5 maart 2017

Triptiek Kunisada

歌川国貞展:芝居絵と美人画

歌川国貞(1786ー1865)は55年間、絵を描くことを生業とし、推定2万5千点以上を作画したと言われる。 それにも関わらず、20世紀の国貞評価は高いものではなかった。同時期に活躍した国芳や広重の評価がヨーロッパやアメリカで高まる一方、国貞の評価は上がらず、その秀作点がニューヨークで行われたのは1993年になってからのことであった。国貞生誕から230年の今年、ヨーロッパで初めて国貞の芝居絵と美人画の展覧会を行う。

上記のように作品数が非常に多いため、この展覧会で国貞作品の多様性をすべて紹介することはできない。しかし、国貞の評判はおもに役者絵と美人画に基づく。一方、あまりよく知られていないのが、風景画や武者絵であるが、これらの分野でも国貞の試みは、独特の画風で際だつ。

国貞のキャリアは長く、画風もその時々に変わった。それを存分にご覧いただくため、この展覧会は年代順に、ジャンル別に構成してある。 前編では1828年までの浮世絵を展示するが、中心となるのはシーボルトが持ち帰った美人画である。後編は国貞が「(二代)豊国」と名乗った時代に重点を置く。この時期の絵はより色鮮やかになり、背景が丁寧に描かれ、描写はより直接的である。

歌川国貞

たいてい浮世絵師の一生についてはあまりはっきりしたことがわからないが、国貞もその例外ではない。国貞は1786年本所(現墨田区)で生まれた。父親は渡し船の株主と裕福であり、また五代目市川團十郎や後の7代目團十郎も属した狂歌連に名を連ねた。その影響であろう、国貞も子供の時から狂歌人や役者らを身近に見ながら育った。歌舞伎に魅せられ、無数の役者絵を複写していた。これが歌川豊国(1769ー1825)の目に留まり、14歳で豊国に弟子入りする。1807年、初めて本の挿絵を作画、その翌年には初めて一枚物を作画する。その才能とネットワークからすぐに歌舞伎を中心に仕事を任されるようになり、いろいろ新しいことを試みた。その結果1815年には、写楽風に役者の錦絵を出版するようになる。

美人画も早い時期から手がけた。吉原の遊女を描き、顧客に売った。国貞の顧客とは吉原を訪れる客であり、国貞の美人画をピンナップとして買ったのだ。本展覧会では、とくに美人画を数多く展示しているが、これはシーボルトが江戸参府中にこの種の浮世絵を同時代版画の見本として買っていたからである。

シーボルトコレクションの浮世絵の色

この展覧会では国貞の浮世絵の「複製」を7点展示している。いずれもヤン・コック=ブロムホフ(出島商館長)、ヨハネス・ファン=オーフェルメール=フィッセル(出島商館員)、そしてシーボルトが、1818年から1830年の間にコンテンポラリーアートの見本として購入し、オランダに持ち帰ったものである。3人が蒐集した浮世絵の数は合計で1200点を超え、ライデン国立民族学博物館に保存され、ここ180年の間、文字通りほとんど日の目を見ていない。そのため退色知らずで、これがこのグループの浮世絵が世界でもユニークな理由である。いまここにあるような色をシーボルトたちも浮世絵を買ったときに見ていたはずであり、このグループの浮世絵コレクションは、19世紀初頭の浮世絵の色の基準コレクションと言えよう。

シーボルトハウスの開館以来(2005年)、このグループの浮世絵を含むコレクションが常設展としてパノラマルームに展示されていた。そして2008年、色の退色具合について調査報告がなされた。調査の結果は、残念ながら退色の具合が激しすぎるというものであった。そして以後、このグループの浮世絵をカテゴリーに分類し、上位3つのカテゴリーに属する浮世絵は今後いっさい展示しないことが決定された。この展覧会では、オリジナルの「複製」とすでに退色してしまったオリジナルを並べて展示している。浮世絵展がどこの博物館でも非常に暗い場所で行われている理由がわかるかと思う。LEDなどの新しい照明技術の開発が待たれるが、浮世絵に関しては、展示には退色リスクが必ず伴う。

吉原の美人たち

国貞の描いた美女たちはいずれも遊郭吉原の遊女である。男は金を持って吉原に遊びに行ったが、 遊女も男たちも狂歌、音曲、舞踊、芝居によく通じており、吉原は文化の発信地であった。

国貞は1840年代はじめまでに美人画を100シリーズ以上作画した。絵には遊女名、そして彼女の属する茶屋、または揚屋名が記されている。初期の頃の美人画シリーズでは背景はたいてい地潰しで、「見立て」を好んで描いている。遊女をたとえば文学史上の高尚な人物になぞらえて描く、つまり見立てるという興である。

役者絵の名手

歌舞伎は国貞にとっても重要な画題であった。そもそも歌川派は初代豊国(1769ー1825)の時代からこの分野を得意としてきた。役者絵の歌川派のマーケットシェアは絶大で、これは19世紀の終わりまで脅かされることなく続いた。国貞は弟子とともに50年以上この分野に君臨し続けた。

役者絵には、歌舞伎役者が各の役で描かれているが、役者名は描かれていても、役名が描かれていることはまずない。また、制作年については、「年月印」という物が浮世絵に押されるようになるのは1852年からであるから、それまでの作品については「歌舞伎年表」という史料を使って、まず芝居が上演された時期を特定することが必要となる。

歌舞伎ファンは劇場で役者絵を購入した。ファンは役者の役毎に毎回、役者絵を蒐集した。集めた役者絵は紙挟みにまとめるか、あるいは画帖として保存するのが普通であった。

国貞の初期の役者絵には、背景に描写がない。つまり背景の地潰しには雲母の粉末が用いら(雲母摺(きらずり))、役者はあたかも胸像のように描かれている。後年には、背景が充実するようになり、同時に色のコントラストも鮮やかになっていく。

歌舞伎のクライマックスは役者が見得を切り、観客からかけ声がかかる場面である。役者絵も当然、この場面を描いた物が多い。

風景画と武者絵

歌川派の絵師には画題については役割分担があったようだ。国貞、国芳、広重の3人はそのうちのもっとも重要な分野を分け合った。1828年頃から、国芳は武者絵を専門とするようになる。その少し後で、広重は風景画、花鳥画を専門とするようになる。そして国貞は、役者絵と美人画を専門にする、そういう具合である。そして3人とも、限定的であるにしても、専門外の分野も試みる。国貞が描いた数少ない風景画は、広重の物とは根本的に画風が異なる。国貞は風景画に洋風を取り入れた。遠近法を試み、西洋画の額装を模して、紙に額を描いて縁を取った。国貞の作画した風景画は30ほど知られるが、どれも現存する枚数は少なく、その人気の高さが伺える。 1850から60年代にかけて、広重の作画した風景に国貞が人物を描くという共作が現れる。

武者絵に関しては、国貞は国芳を模倣し、国芳同様に画面一杯に武者を描いた。しかし、国貞の武者はどこか流行遅れの感があり、また国芳の持つ大胆さを欠く。国貞の武者絵のも数少ないが、面白い。

団扇絵

流行に敏感な江戸っ子は毎年新しい団扇を求めた。団扇屋に出かけ、主人が版元から仕入れてきた浮世絵の見本帳に見入るのだ。そしてそこから表絵と裏絵を一枚ずつ選び、それを竹骨に貼ってもらう。こうして作らせた団扇の表には表情豊かな役者、裏には美人、または、風景であったりする。

団扇は日用消耗品である。江戸時代の物が残っていることは希である。この展覧会で展示している物は売れ残った団扇絵である。四隅と中央下部にまだ白い紙が残る。これは骨に張り付けたらお役目御免で、切り取られる部分である。19世紀の絵師のほとんどは団扇絵の作画をしている。しかし国貞、国芳、広重の3人に敵うものはなく、3人はそれぞれ数百デザインしている。

摺物

摺り物は浮世絵の中でも特別なジャンルで、商業出版を目的としないのが特徴だ。狂歌人や狂歌連の注文で作られる豪華な浮世絵で、正月などに配られる。摺物には狂歌連会員の狂歌が書かれるため、狂歌連の方は会員の狂歌に適する絵が描ける絵師を探す。国貞は役者らが属する狂歌連に好まれた。 摺物の非商業的特徴から、摺物に版元の名前が出されることはない。印刷の質、紙の質は常に高く、金銀摺(きんぎんすり)や空摺(からずり)といったテクニックも用いられる。